女相撲については、「見世物としての女ふんどし」である程度解説していますが、ここでは女相撲についてもう少し掘り下げてみることにします。残念ながら写真などの視覚的な資料に乏しいのですが、どうぞ興味のある方はお読みください。

 

一口に「女相撲」といっても、様々な形態がありますが、ここでは
1.見世物(相撲興行)としての女相撲 
2.郷土芸能としての女相撲
3.雨乞いとしての女相撲
というように分けて解説していきます。


◇見世物としての女相撲

「相撲」という言葉が日本の史書に初めて登場したのは日本書紀の巻14、雄略天皇13年(469年)9月の項に見られる女相撲においてです。ここには「采女に着物を脱がせ、ふんどしをつけさせて皆の前で相撲をとらせた」というような記述がありますが、これ以降記録の上で女相撲が現れるのは江戸時代(延享元年=1744年)まで下ってしまうのです。実に1300年近くもの間、「女相撲」という単語が書物の中に登場することはなかったのでした。それではその間女相撲は行われなかったのか?というと、そんなことは絶対にありません。雄略天皇の時代にすでに女相撲が淫靡な見世物になった程なのです。その後も愛好者の間で密かに行われたに違いありません。いつの時代でも人間の性に対する関心は非常に強いからです。

元和年間(1615〜1624年)には女相撲が密やかな楽しみから、表舞台へと脚光を浴びるようになってきました。この当時の女相撲とはまさしく女性の裸体鑑賞として行われたのであり、そのため当然素裸にふんどしという格好で行われました。

井原西鶴の「色里三所世帯」(元禄元年・1688年)には「折節秋の初なるに、女角力を催しけるに、広庭に四本柱、紅の絹を巻立て、土俵に小蒲団の数を並べ、加茂川のしゃれ砂をふるわせて敷かせ、美女に男のすなる緞子二重まわりの下帯をさせ」という記述が見られます。これを見ると当時は、遊里などの余興として芸者にふんどしをさせて相撲を取らせたことがわかります。近松門左衛門の「関八州繁馬」(享保9年・1724年)にも同様にこのような「お座敷相撲」の様子が書かれています。

延享年間(1744〜1747年)に江戸の両国あたりで女相撲が始められ、明和年間(1764〜1772年)に大流行しました。この時は女力士による普通の取り組みが主なものでしたが、その一方で明和6年(1769年)には初めて盲人対女力士の取り組みが行われました。これは女相撲が、力と力とを競う真面目な取り組みとは捉えられてなかったことを物語ります。その後女相撲は禁止されますが、嘉永元年(1848年)には再び復活しました。 下の図はその当時の様子を描いたものですが、残念ながら女力士の衣装はふんどしではなく腰巻です。

女対盲人
盲人対女力士


江戸期の女力士の四股名は、玉の越、乳ヶ張、姥ヶ里、腹檜、貝ヶ里、色気取、美人草、穴ヶ淵などというように、色気のある面白おかしい名前がつけられました。

明治時代(1868〜1912)になり、明治6年7月の布告第256号で女相撲を禁止しました。しかし明治23年(1890年)には女相撲興行が東京で大々的に開催されているため、先の布告も有名無実となったようです。その後山形県の「高玉一座」「石山一座」などが、全国規模で女相撲興行を行いました。またこの2座以外にも小さいもので23程度の興行団体がありましたが、その殆どは山形県で誕生したものでした。

女相撲
山形県天童市八幡神社に残る絵馬
女相撲
歴代女横綱

明治期の女力士の四股名は、富士山、遠州洋、東海道、北海道というように地名を取り入れたり、蒸気船はま、電信はや、金剛石きく、などのように文明開化に因んだ名前もつけられました。

昭和5年(1930年)先の石山一座がハワイで興行を行っています。また高玉一座は昭和16年(1941年)頃まで女相撲を開催し、戦後は昭和26年(1951年)に石山一座が都内巡業を行いました。

女相撲
京都興行の第一北州倶楽部女相撲協会の遠江灘
女相撲 女相撲 女相撲


このように何度も禁止されては、その度に復活した女相撲は、単にエロチックな見世物というだけではなく、腹の上で餅をついてみせたり、米俵を前歯で咥えて見せたりというように、サーカスに似た娯楽性の高いものでもあったのです。とは言っても時の当局から何度も禁止されたということは、エロチックな要素が相当強かったことを窺わせます。

女相撲 女相撲
前歯で俵を咥える
女相撲
腹の上で餅つき
女相撲
同左

さてその肝心な女力士の格好ですが、上述のように江戸までは裸体鑑賞の一手段として女相撲が行われたため、素裸にふんどし一丁といういでたちでした。明治になってからは本格的な取り組みが中心になってきたこともあり、上半身はシャツを着込み、下半身は短パンを穿き、その上から回しを締め込んだスタイルが一般的だったようです。

尚参考までに朝日新聞社刊「女大関若緑」(遠藤泰夫著)には次のような記述があります。
  *「上は肌襦袢、下は短いパンツの上に回しを締めた志げのが恥ずかしそうに顔を紅潮させて・・・」(P51)
   *「肌襦袢に
短いパンツをはいた上に、回しを締めて相撲を取っているのを見て、校長はひとまずホッとした。」(P77)  

・・・校長の立場とすれば、一応生徒たちの手前、ホッしてみせないといけないのでしょうが、男なら誰でも本音は「残念!」ではないでしょうか。


◇郷土芸能としての女相撲

上記の興行(面白おかしい見世物的な)相撲と違い、本格的な取り組みを中心とした相撲芸能もありました。このようなガチンコ相撲は九州の西北部で特に盛んだったようです。たとえば伊万里市波多津町の女相撲は、豊臣秀吉の朝鮮の役の戦勝祝賀がその起源になっているとも言われています。

女相撲女相撲女相撲
女相撲女相撲

この女相撲は取り組み以外にも相撲甚句、相撲踊り、土俵入り、弓取り式などの一通りの演技が披露されました。位取りは前頭から大関までで、取り組みに際しては、東方と西方の力が大体同じレベルになるように配慮されました。力士の服装は真っ白な丸首シャツに短パンをはき、黒繻子のまわしに、髪は大たぶさの相撲髷を結っていました。更に行司も袴姿の女性が勤めました。

これ以外にもいくつかの地方に女相撲が伝わっています。
(1)長崎県式見村(現、長崎市式身町)
(2)長崎市三重町
(3)佐賀県藤津郡塩田町
(4)佐賀県武雄市
(5)佐賀県杵島郡大町町
(6)佐賀県杵島郡江北町(八町北区)
(7)熊本県天草郡栖本町
(8)熊本市画津町下無田
(9)熊本県八代郡千丁町
(10)熊本県八代市鼠蔵町

郷土芸能としての女相撲は落成式や祝いの席で披露されることが多く、披露の際にも実際の取り組みは行わず、相撲踊りを中心にする場合も多いようです。最近は女相撲を郷土芸能として登録したり、保存会が結成されたりする動きも活発化しています。


◇雨乞いとしての女相撲

農民にとって、雨は非常に大切な天の恵みであり、そのため天候は常に重大な関心事でした。雨を祈る雨乞いの儀式には様々な形態がありますが、通常は男子によって行われますが、秋田県全般に多く見られる女相撲による雨乞いの儀式は珍しい例と言ってもよいかもしれません。何故雨乞いに女相撲が行われたかというと、女性は不浄とされていたため、女人禁制の土俵で相撲を取らせることにより、天の神の怒りを呼び起こし、雨を降らせようというものです。

雨乞いとしての女相撲が行われていた主な地域は以下の通りです。
(1)秋田郡比内町
(2)秋田県鹿角市
(3)北秋田郡独鈷地区
(4)北秋田君田代町長坂
(5)鹿角市高屋
(6)仙北郡西仙北町大沢郷(八幡神社に奉納)
(7)鹿角市土深井

神を怒らせることで雨を降らせる・・・しかし、むしろ神を怒らせることで、却って逆に待ち望んでいる雨を降らせてもらえないのではないか?というようには考えなかったのでしょうか?今日の民俗学者の研究では、雨乞いのために女相撲を行うに至った経緯、あるいは心理的な作用は次のようなものだったと考えられています。

農耕技術の発達していなかった昔は、作物の出来不出来は日照りなどの自然条件に左右されることが大きく、そして凶作はそのまま農民の死に直結していました。そのため自然界への絶望的な対抗手段として、神の掟を破るような行為をあえてしたとされています。このため掟破りの行為は女相撲に限らず、女人禁制の山や霊場に女性が登ったり、境内で淫らな行為を真似たりという数々のタブー破りを行ったのです。

またこのような行事を村人全員が一丸となって行うということで、お互いの結びつきを強め、時としては凶作への不安を解消したり、気持ちを和らげるレクリエーションの役目も果たしたのです。

雨乞いとしての女相撲は、本当の取り組みを行うというよりも、相撲の真似事をしたり、歌ったり、踊ったりというようなお祭りの要素が加味されたものが多かったようです。勿論力士の服装もシャツやもんぺの上に下がりを着けただけだったり、せいぜい化粧回しだけだったりという具合で、本格的なふんどしとは程遠いものでした。

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